先生

 
 先ほどから魔法という言葉を連発されて少々心配していたが、思ったより服装の文化に違いがなくて、ライトはホッとした。

 アルトは何やら複雑な文様が入った蒼の上着とハーフパンツを身につけ、ルナは薄手の、きれいな青と赤の染め物が入った白い着物の様なものを着ていた。
 ど ち らも別段驚くほどの奇妙さはない。
 そもそも、言葉が通じているのだ。
 言葉が通じれば、これからどうするにしても何とかなるはずだ。いや、どうするも、何とか父と母に連絡を取る以外にないのだが。
「さて、そろそろ兄さんも起きてくるだろうし、朝ご飯にしようか」
「あ、うん」
 ライトは立ち上がって、アルトに続いてドアに向かって歩き出す。さっきまでは気付かなかったが、隣の部屋の芳ばしい匂いがこちらの部屋の中にまで漂って きていた。
 それに併せて隣の部屋から話し声が聞こえ、その声が段々とドアの方へと近づいてくる。ガチャとドアが開き、続いて白衣を着た大柄な男が室内に入って きた。
 まだ中年には程遠い、どちらかというと若々しく見える男性だ。
 精悍な顔つきに反した黒くてボサボサの髪が妙に目立つ。
 服の上に真っ白な白衣を羽織り、首からは聴診器を下げていた。大きく欠伸をしながら漆黒の瞳を擦り、ボリボリと首の後ろを掻いている。
「あっ、兄さん!」
 アルトが男に素早く駆け寄った。
 男は再び大きく欠伸をしながら、アルトからライトへと視線を移動させる。
「アルト、患者の様子は?」
「うん。ルナがヒーリングしてくれて、熱も下がってるし、呼吸も…………兄さん?」
 だが、男にはアルトの言葉は聞こえていないようだった。ライトに視線が定まった途端に、男は大きく目を見開いて、ライトを茫然と見つめている。
 一方、ライトも奇妙な感覚に襲われていた。
 男の顔を見た瞬間、頭が一瞬痛み、霞がかったように視界がぼやけてくる。

「……な、なぜ……あ、ア…イ……」

 男が何か呟いている。そうして、ゆっくりとライトに手を伸ばしかけた。
「…………に、兄さん?」
 アルトの言葉で男はハッとしたように手を引っ込めた。
 何度か瞬きを繰り返した後、ふう、と大きくため息を吐く。目を瞑って額に手を当てる男の姿を見て、 アルトが気遣うように声を掛けた。
「に、兄さん……どうしたの? 大丈夫?」
「…………いや、なんでもない」
 男はアルトに優しく声をかけると、男は再びライトを見つめてきた。
 先程の刺すような視線はもう感じない。
 ライトの方も、今度は落ち着いて男のことを見ることが出来た。
「さて、気分はどうだ?」
「あっ、はい。もう大丈夫です」
「そうか、ちょっとすまんな」
 そう言って男はライトの額に手を当てる。
 続いて「失礼」と声を掛けて手首を掴み脈を計り、そのままあちらこちらを触診していく。その瞳は真剣そのもので、ラ イトの方から声を掛けるのは 憚られた。
「……俺の名はブレイズ。肩書きは他にも色々とあるが、この村で診療所を開いている。それで、君の名前は?」
「……あっ、ぼくは来人、沢田来人といいます」
「…………そう……か……『ライト』……か…………ふう、ではライト君。俺からいくつか質問をしていいか?」
 ライトの名前を口にした瞬間、ブレイズは一瞬だけ視線を遠くに泳がせた。だが、ブレイズはすぐにライトに向き直り、ゆっくりとした口調で話しかけてく る。
 自分のペースに合わせようとしてくれている、そう感じたライトはどこか 包み込むような安心感を憶えた。
 それなら……。
 自然と口が動き、ブレイズに対して逆に問いかけていた。
「……その前にブレイズさん、ぼくも聞きたい事があるんですが……」
「……ん、いいだろう……何だね?」
「……あの、ここは…………どこなんでしょう?」
「……ここか? ここは…………『クルト村』だ…………」
「あ、あの、そういうんじゃなくって……もっと詳しくというか…………」
 ライトの言い方に、何か感じるところがあったのだろう。ブレイズは再びライトを見つめた後、よく通る声で説明を始めた。
「『カイゼル王国』の北の果て、そのクルト地方の最北端。ここは、『海の見える村・クルト』、又は『はじまりの村・クルト』と呼ばれる村だ。東西街道から は少し離れているが、ミジアスまでなら三、四日歩けば辿り着ける……のだが…………カイゼル王国は……分かるか?」

「か、カイゼル……王国……?」
 
 ライトは世界史の知識と地理の知識をフル動員したが、まったく聞かない名だった。
 もっとも、あまり社会は得意ではないのでライトの持つ知識自体は脆弱な ものだが、この際それは置いておくことにする。
「『トルティーヤ四大国』の一つ、カイゼル王国。大陸の北西にある国だ。カイゼルを知らんとは、一体どこの生まれだ?」
 『トルティーヤ』という聞きなれない単語が又も登場する。ライトにはブレイズが何を言っているのかまったく分からなかった。
 何も話せないライトを見て、ブレイズは事態の深刻さを悟ったらしい。
「……どうやら、落ち着いて話さなくてはならんらしいな……まぁ、メシでも食いながら、ゆっくり聞かせてくれ」
「……はい」
 何も聞かないブレイズの気遣いが、今のライトにはありがたかった。
 だって、今何を聞かれたところでライトは一切答えることは出来ない。頭の中がこんがら がり、まともに考えることすら出来ないのだ。
「……よし、体の方は、もう大丈夫だろう」
 ライトを安心させるように、ブレイズはにっこりと笑いかけてきた。続いて、笑みを浮かべたままルナの方へと視線を向け、その頭をポンと撫でながら言葉を 発す る。
「体調もほぼ万全だ。ルナ、朝早くに済まなかったな。だが、お前も大分成長したようだ」
「そんな……そんなこと、ないです。そんなの先生に比べたら……それに、実はライトくん痛かったみたいで……少し失敗しちゃって……」
「失敗してもこれだけの回復効果を出せるなら十分だ。旅の中でも、きっと大きな力となる」
「先生……そんな風に誉められると、何だか先生じゃないみたいです」
 ルナは下を向いたまま言った。何かを堪える様に、ぐっと拳を握り締めている。
 ブレイズは軽くため息をつくと、再びルナの頭をポンと軽く叩いた。
「いくら俺でも、出発の前日に説教はしないさ」
 頭を撫でながらブレイズはゆっくりと言葉を続ける。
「……ルナ、今までよく頑張ったな。辛い事もあったと思うが、俺が教えられることはほとんど教えた。後は、旅の中でお前の力を存分に発揮しろ」
「はい、先生。今まで……ありがとうございました」
  ルナは深々とお辞儀をする。
 そして顔を上げると、ブレイズに向かって飛びつくようにして抱きついた。ブレイズの背中に回された手はギュッと白衣を握り締めている。
「ルナ、今日の宴会には僕も沢山おいしもの作るからねっ。楽しみにしてて!」
 二人の様子を黙って見守っていたアルトが、ニコニコと笑いながら言葉を挟む。ルナはブレイズから離れると、今度はアルトをギュッと抱き締めた。
「うん、ありがと。アルト。期待してるねっ…………今日の午後から明日にかけては、もう忙しくて……ゆっくりお別れできないから…………」
「しょうがないよ、大事な儀式だもん、ルナ、しっかりね」
「うん」
 どういう事情かはわからないが、どうやらルナは旅に出るらしい。詳しい事情は分らないにしても、三人ともとても辛そうな事だけはライトにも伝わってき た。
 ルナはアルトから離れて、再びブレイズと向き合う。
 先に口を開いたのはブレイズの方だった。
「ルナ、本当は出発前に言おうかと思ったんだが……丁度いい、今伝えておく。大事な話だ。」
 ブレイズは、そこで一旦言葉を切った。
「……もしお前が聖地に辿り着いて、最後の試練を迎える事になったら、その前に俺に連絡してほしい。お前に話したいことがある」
「話したいこと……ですか? それは今じゃなくて、その時じゃないと……」
「ああ、そうだ…………お前が最後の試練を迎えた時に話さなくては……意味がない。とても大切な話だ…………いいか、決して忘れるなよ」
「は、はい、わかりました」
 ルナが背筋を伸ばして返事をする。
 ブレイズはそんなルナの頭をもう一度だけ撫でた。
「……ふう。よし、わかったら早く家に戻った方がいい。バキンズ殿も心配しているだろうし、それにもうすぐ五月蝿いのが……」
 その時、外から大きな声が聞こえてきた。そこまで叫ばなくても十分聞こえるだろっ、と突っ込みを入れたくなるような大声だ。
 ブレイズが深々とため息をつき、アルトとルナは二人で顔を見合わせクスクスと笑いあっている。
「おはよう!! 師匠、アルト!!!」
「おっはよう! ブッレイズゥ〜、ア〜ルトォ〜。朝ご飯食べにきたよ〜」

「……来てしまったようだな」
 ブレイズが頭を掻きながら、ポツリと呟いた。

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2005年7月14日 掲載