秋人と来人


「来人、どこか調子悪いの?」
 ふと、母の陽子の声が聞こえた。
 
「えっ?」
「さっきから全然食べてないじゃない。それともおいしくなかった?」
 どうやら、食事の手が止まっていたらしい。皿を見るとまだ半分以上おかずが残っている。周りを見回してみたが、もうほとんどの仲間が食事を終えているよ うだった。
 来人の暮らす『北の台ホーム』は、子供の数が12人とそんなに大きな施設ではない。身寄りのない小学生から高校生までの子供たちがここに暮らしている。
 もっとも、来人は他の子供とは異なり、ここを運営している父と母と息子なのだが。
「ううん、ゴメン。ちょっと考え事してて……」
 そう言って来人は、慌てて朝食を腹に詰め込み始めた。
 そんな来人の様子を見つめながら、母はそっとため息を吐く。他の子供が食べ終わった皿を片付けながら、あきれたように口を開いた。
「……ホント、あんたは昔っからよくボーっとしてて飽きないわね。いいかげん、その妄想癖治しなさいよ」
「べ、別に妄想なんてしてないよっ!」
「ふ〜ん、じゃあ何考えてたの?」
「うっ、そ、それは……その……」
「ほらほら、口だけじゃなくて手も動かす。片付かないでしょ?」
「はーい……」
 来人が考えていたのは、あの夢のことだった。
 小さい頃から、何かが起こるたびにあの夢を見てきた。戦争が始まった日の朝も、大きな地震と火山の噴火があった日の 朝も。
 そして今日の夢だ。
 鮮明で、そしてあの女の人の顔もはっきり覚えている。
 大きくなるにつれて段々忘れていった、あの夢。それが、今日になってまた現れた。
 これはまた、何かが起こる予兆ではないのか。
 ――考えすぎかな……。
 来人はそう思ったが、その考えを打ち消すことは出 来なかった。
 だが、来人の物思いは強制的に打ち消されることになる。それも、来人の親友の手によって。
「……おーい、ライトっ! いつまで喰ってんだ〜、もう行くぞー!」
 不意に、部屋の中に、浜崎秋人(はまざき あきと)の声が響いた。玄関の方から聞こえてくる声はいつもの様にテンションが高く、朝からついていくには困 難に思える。
 声の主である秋人は、来人がこのホームで一番仲がいい友達だ。年が同じというのもあるかもしれないが、秋人曰く「きっ と馬が合うんだよ、俺達さ!」ということだ。
 秋人の声で時計を見ると、もう八時を回っていた。すでに学校まで走らないと間に合わない時間だ。
「げっ! ちょっ、ちょっと待ってよ、アキトッ!」
「もたもた喰ってるからだよ、陽子先生も怒ってるぞー!」
 秋人の言葉と共に、後方から強い殺気を感じる。
 恐る恐る振り向くと、後ろに母が仁王立ちしていた。眉をヒクヒクと揺らし、右の拳を肩の辺りでギュッと握っている。
「……らぁ〜〜い〜〜とぉ〜〜…………アンタっいつまで食べてんのっ、片付かないって言ってるでしょ! 早くしなさいっ!!」
「う、うわっ! ご、ゴメンっ、母さん、行って来ます!!」
 母の怒りのボルテージがこれ以上上がる前に、来人はカバンを掴むとさっさとその場を退散した。廊下を駆け抜け、玄関で待っていた秋人に声を掛ける。
「ゴメンゴメン、アキト。行こッ!」
「遅いぞっ、ライト!」
 来人に向かって指を指しながら秋人は顔をしかめたのだが、すぐさまニヤリとその表情を変えると、急に声を潜めて言葉を続けた。
「…………でも、怒ってる陽子先生、久しぶりに見たなぁ。くくくくっ、まさに鬼ババ……」
「あ〜〜きぃ〜〜とぉ〜〜……だぁれが鬼ババだってぇ〜!!」
 耳元で唸るような声を聞き、秋人がその場で固まった。ゲームで言うならメデューサに睨まれて石化したというところだろう。巻き込まれぬよう、来人はそっ とその場を逃げ出そうとした。
 だが、音を立てぬように、決して視線を後ろに向けないように進んでいた来人の腕が、横から伸びてきた何かにさっと掴まれる。見ると、秋人の腕が来人を逃 がさぬようにと絡みついていた。
「……ライト、貴様……オレを見捨てる気か?」
「……さらばだ、アキト。君の尊い犠牲はきっと忘れないよ…………一時間くらいは」
「……アンタら…………いいからさっさと行きなさいっ!!」
 思いっきり怒鳴り付けられて、来人と秋人は逃げるように外に飛びだした。そのまま足を止めずに庭を駆け抜け、通いなれた道へと走り出す。
 遅刻ギリギリの通学路を並んで走りながら、堪えきれなくなったように二人はどちらともなく笑い出した。
「……アハッ、アハハハッ、た、頼むからさぁ、少しは周りを見てから喋ってよ!」
「あはははっ……ごめん、ごめん。まさかすぐ後ろにいるとは思わなくって……」
 
 秋人の声を聞きながら、来人は空を見上げた。
 雲一つない青い空が広がっている。
 ――こういうのを五月晴れっていうのかな……。
 そんなことを考えながら、来人は学校への道を走っていった。

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2005年6月26日 掲載