第一部
動乱の王国



序章  時、来たりて……

第一話


プロローグ

 人間の記憶って、不思議だと思う。
 
 忘れようとしても決して忘れられないこともあるし、逆に、忘れちゃいけないことを忘れてしまうこともある。
 ぼくの場合、それは夢だった。
 忘れようとしても、忘れられない。逆に、きちんと思い出そうとしても、思い出せない。

 ただ、わかるのは、その夢がとても大事なものだということ。
 忘れちゃいけない大切なことを、ぼくの中に繋ぎ止めているんだ。ぼくが忘れかけている大切なことを……。
 それが何なのかは、ぼくにはわからない。
 夢の中には、ぼくが知らないもう一人のぼくが現れる。
 今のぼくが持っていない、何かを持ったぼくが……。


 
 ライトは夢の中にいた。いつも見る夢だ。

 女の人がライトのことを抱きしめている。
 強く、とても強く抱きしめられ、ライトは息が詰まりそうになる。
 きれいな女の人だ。
 目は黒くに澄んでいて、さらに綺麗な金色の髪をしている。女の人のその悲しげな表情が、その美しさを際立てていた。
 ――……どうしたの?
 女の人に向けたその声は言葉にならず、ライトの心の中にだけ響き渡る。女の人はずっとライトを抱きしめたまま、じっとその顔を見つめていた。
 やがて、一人の男が女の人の元へとやってくる。
 女の人はライトをもう一度抱きしめると、そっと何かを呟いた。毎度のことなのだが、何を言っているのかを聞き取ることはできない。
 まるで、 古い映 画を見ているように、音のない世界が続いていく。
 輪郭はぼやけ、声も聞き取ることが出来ないのに、ライトはこの夢を忘れることは出来ないのだ。
 女の人が、男にライトを差し出す。男は女の人に頷いて、そっとライトのことを担ぎ上げた。
 男はライトの他に何人かの子供を連れているようだが、来人はその顔をはっきりと見ることはできない。輪郭がぼやけていて、男なのか女なのかさえわからな かった。
  ――……どこへ行くの?
 ライトの声は、またしても届くことがない。男はそのまま走り出してしまった。
 女の人の姿がどんどん遠くなり、やがて見えなくなる。
 男は走りながらしきりに周りを気にして、子供達を庇う様に走り続けた。
 
 
 ライトを抱えたまま男が走り続けると、やがて大きな洞窟の様なところに辿り着いた。ライトを肩から下ろし、しっかりと手を繋ぐと、男は迷わず中に入って い く。
 洞窟の中に進んでいくにつれて太陽の光は失われ、周囲を闇が包んでいく。ひんやりとした空気が体を包み込み、悪寒が背中を駆け上がる。
 それでも男は躊躇うことなく、洞窟の奥へと足を進めていった。
 闇から守るように、男はギュッと子供達を強く抱きしめてくる。男の体の温かさと、早鐘の様な心臓の音を聞きながら、ライトは男の服の端をしっかりと掴ん でいた。
 ――そうだ、これは……。
 音は聞こえなくとも、ライトは知っている。男の心臓の鼓動、そして洞窟の中で男が歌っていた歌を。ライトの頭の奥底で、忘れずに残っているのだ。
 やがて、前方に小さな明かりが揺らいでいるのが見えてきた。その光に誘われるように、男は洞窟の奥へ奥へと進んで行く。
 一体どのくらい歩いたのだろうか。
 ようやく一行は洞窟の突き当たり、天井を見上げてしまうような大きな空洞に辿り着いた。
 空洞は松明の光だけで薄暗く、天井部分は闇に包まれ、その全容を把握することは出来ない。その一番奥には何やら祭壇らしきものがそびえ立っていた。
 祭壇自体もかなりの大きさで、その頂を見ることは出来ない。だが、ライトはその祭壇がどのような姿をしているか知っている。
 獅子や龍など金の彫刻がその淵を彩り、その頂には遠くの空を見上げるように燕が据えられている。今は暗くて見ることが出来ないが、その目は蒼く、強い輝 きを持っているのだ。
 そうだ、ライトは以前にもこれを見たことがある。
 一体それがいつなのかは思い出せないが、以前にもここに来ているはずなのだ。
 男は祭壇に向かって歩きながら、ふと小さくため息をつく。その視線の先に目をやると、祭壇の前で小さな影が動いているのが見えた。
 紫色のローブを身に纏った小柄な少年が、祭壇に向かって祈りを捧げている。男の気配に気付いたのか、ハッとしたようにこちらへ振り返り、手にしていた杖 を構えた。
 少年はフードを被っていて、顔を見ることは出来ない。どうやら男とは既知の関係のようで、その姿を認めると安心したように杖を下ろし、傍へと駆け寄って きた。男は少年に何事か話しかけ、その言葉に少年がコクリと頷く。そのままクルリと洞窟の奥へと向き直り、祭壇に向かって何やら呼びかけ始めた。
 洞窟内は松明の光だけで薄暗く、そのせいかひどく不気味で、この世の理から外れた場所の様に思える。
 浮世から隔離された、特別な空間。
 まるで、時の流れから取り残された場所のようだ。
   ライトは辺りの様子をよく見る為にと首を回そうとした。よくよく見ると、ローブを着た少年の他にも、闇の中を蠢く人影をいくつか見つけることが出来る。
 
 だが、それらが何なのか確認しようとした瞬間、目の前でいきなり光が爆発した。
 
 爆散した光はやがて束となり、次第にゆっくりと形を変えていく。
 光の束と束が互いに絡み合い、交じり合い……やがて、目の前には、大きな白い光の扉が出来上がっていた。
 これは……そうだ。ライトはこれを知っている。
 そしてこの後、自分がどうなるかも。
 男がライトに向かって口を開き、そっと何かを首に掛けた。
 それが何なのかを確認しようとするや否や、ライトは男に持ち上がられ、勢いよく扉へと投げ込まれてしまう。
 輝くような光の中、視界が真っ白に染まっていく。
 
 ――そうだ、ぼくは……。
 ライトは、そのままゆっくりと意識を失っていった。



 目覚ましが鳴っている。
 
 その音で、沢田来人(さわだらいと)はゆっくりと目を覚ました。
 一瞬、夢と現実の区別がつかなくなる。
 辺りを見回すと、いつも通りの自分の部屋が広がっていた。昨日夜遅くまで読んでいたマンガ本が枕元に転がり、途中で放棄した宿題が机の上に広げられてい る。中途半端に引かれたカーテンから漏れる朝日が、部屋の中を薄っすらと照らしていた。
 ライトはそっと胸のあたりを撫で、首から掛けたペンダントと指輪があるか確認する。二つとも無事掛かっていることを確認し、来人はホッとため息をつい た。
 昨日で、来人は13歳になった。あの夢を見たのはそのせいなのかもしれない。
 最近はあの夢を見る回数も減ったのだが、今回の夢は別だった。今までよりはっきりと、そして鮮明な夢だった。
 目が覚めた今でも、ライトははっきりと思い出すことができる。
 
 綺麗な女の人。
 来人を担いで走る男。
 フードを被った少年。
 そして……白い光の扉。

 これらが何なのか。
 来人はいつも考えていたが、結局毎回、答えは出なかった。
 ふと時計を見ると、もう七時を回っている。
 考え事をしていたせいで、いつもよりボーっとしていたらしい。そろそろ登校の準備を始めなくては、学校に間に合わなくなる。
 
 来人は大きく伸びをすると、ゆっくりとベッドから体を起こした。

 
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2005年6月17日 掲載