第一章 
残雪の雪山

第一話
予兆

 心地よいざわめきが周囲を包んでいた。
 笑い声に叫び声、まるで修学旅行のようだ。
 日常から離れた、僅かながらの休息。
 たとえそれが一時に過ぎなくとも、少年の心を和ませるには十分だった。

「隊長、何を見てるんですか?」
 不意に後ろから声が聞こえた。
 見ると、副長の三村がこちらをじっと見つめている。相変わらずの無表情だが、いつもよりはずっと穏やかな空気を放っているように感じられた。
「いや、何となく……な」
 石月は再び窓に目を向けると、何気ない口調で言葉を続ける。

「……楽しんでいるか?」
「はい。僕も、皆さんも楽しんでいるようです。ですが……」
「なんだ?」
 三村は言うか言うまいか悩んでいるようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「……隊長はどこか浮かない顔をしている気がします」
「そんなことはないさ」
「いえ……失礼かも知れませんが、どこか悲しそうに……」
「……三村」
 石月の言葉に、三村はビクリと肩を震わせた。石月はなにも言わず、そのまま広間を出ていこうとする。
 三村は慌てて石月の前に飛び出し、深々と頭を下げた。
「た、隊長……すみませんでした……ごめんなさい」
 石月は黙って三村を見下ろしていたが、やがて……、

「……まったく、お前にはかなわんな」
 そう、一言呟いた。

「えっ?」
「お前には隠し事は出来ん。雄太やレンが気付かないふりで見逃してくれることも、お前には誤魔化せないからな」
「すみません……」
 三村は恥じ入るように頭を下げた。自分が田島や大橋の様な気配りが出来ないことに対する謝罪なのだろう。副長は、誰よりも隊長の心を理解しなくては勤ま らない。
「いや、気にするな。自分一人で鬱いでいても、物事は解決せんからな。雄太もレンも……いや、それ以外のやつでも、俺たちだけならば互いの傷を舐め合っ てしまう。お前のように踏み込んでくれた方が、俺にとってもありがたい」
 石月は微かに笑みを零すと、三村の頭をポンと叩いた。
 
「……隊長」
「なんだ?」
「ここの露天風呂は絶景なんだそうです」
「そうなのか?」
 石月は意外そうに目を見開いた。
 三村からこんな言葉を聞くとは思わなかった。以前ならば、景色とか情景には一切興味を示さなかったはずだ。
 三村は頷くと、ゆっくりと言葉を続ける。
「……特に朝風呂は最高だそうです」
 三村は上目遣いに石月を見上げる。
 不器用ながらも懸命に意志を伝えてくる三村の様子が可笑しくて、そして……嬉しくて……石月は三村の頭を撫でた。
 
「……いい傾向だ」
「え?」
「いや、なんでもない。……そうだな。じゃあ、一緒に入りに行くか?」
「はい、では一緒に行きましょう」
 あくまで淡々と、事務的に三村は話す。
 だが、その表情は、以前とは違って僅かながら感情が見え隠れしている。
 そのことが石月の心をホッと暖めていく。

 この子は、変わり始めた。そしてそれは、何かが大きく変わり始める予兆かもしれない。
 後は、何らかのきっかけ、ほんの僅かなきっかけで物語は加速していく。
 
 窓の外に目をやると、ゆっくりと雪が降り始めていた。



「兄ちゃん、もう遅いよ」
「わかってる」
 青葉翼の言葉に、兄の青葉光一は片手を挙げて答えた。
 机の上にはヨレヨレになった参考書が一冊置かれている。

「……何やってるの? 最後の追い込み?」
「ううん、精神集中。試験前日に追い込んでる奴なんて、受かるはずないさ」
「ふーん……」
 翼はじっと光一を見つめていたが、やがてポツリと呟いた。
「なんで軍なんか行くんだか……」
「……何か言った?」
「はぁ、別に……」

 事故から生還した兄は、狂ったように勉強を開始した。
 それだけでも十分驚かされたのだが、兄が軍に入るつもりだと聞かされた時は、一瞬、気でも違ったのかと疑ってしまった。
 翼としては、兄が軍に行くのは反対だった。
 軍など、大学に行った後に徴兵されて、一年か二年我慢すれば解放されるのである。政府の公報に騙されて、子供を幼年学校に送り込む親の気が知れない、兄 はそう公言して憚らなかったはずだ。
 軍など狂人の集まりである。だがそれを言うなら、国王に絶対の忠誠を誓うこの国も、狂人の集団なのかもしれない。
 勿論誰にも話したことはなかったが、翼はいつもそう考えていた。

「雪が降ってきたみたいだから、明日は早く起きた方がいいよ」
「ん、サンキュー」
 
 せめて兄が軍に染まらないように。
 翼はそっと祈りを捧げた。



「……ょう、隊長」
 耳元で誰かが呼んでいる。
 石月は僅かに目を開くと、自分を呼ぶ人影が誰かを確認しようとした。

 室内は暗く、その様子を見通すことは出来ない。
 腕時計のライトを点けて時間を確認すると、まだ5時前だ。
「目が覚めましたか?隊長」
「……ああ、三村。どうした?」
「時間です」
 三村は淡々と言葉を続ける。
「隊長が、多分自分じゃ起きられないから5時に起こせ、そう言ったので、起こしました」
 そうだ、朝風呂……。
 三村との約束を思い出し、大きな欠伸と共に体を起こした。
 途中、腹の上に乗せられていた田島の足を投げ飛ばし、胸の上に置かれていた大橋の手を払い除ける。ようやく自由の身になった石月は、ヨタヨタと立ち上 がった。

「大丈夫ですか、酒が残ってるんじゃないですか?」
「大丈夫だ、今更酒ぐらいで体に影響はないさ。なんでも、『軍は健やかで健全な少年を育成します』ってのが、広報部のキャッチコピーだからな」
「実際は180度逆ですけどね」
「確かに……」
 石月は軽く笑みを零すと、風呂道具を探して自分の荷物を漁りだした。



「あ〜……いい湯だ」
「はい、いい湯です」
 目を瞑ると、体の隅々まで湯が染み込んでいく気がする。
 疲れが抜け、新たな力が注ぎ込まれるようだ。

「ずっと気になってたんですが……よくこの時期に休みが取れましたね? しかもこの人数を」
「まぁ、色々とな」
「色々?」
 石月はニヤリと笑みを浮かべた。
 それを受けた三村が、……またやったな、とでも言いたげに石月を見つめている。。

「『少年兵、学兵に対しては、その健全な育成の為、十分な休暇、学習時間を与えなくてはならない』……世間一般ではこの法律が遵守されていることになって る。だが、レインから司令に、北都基地の勤務実態を記事にするという話があってな。そこに『たまたま』、俺が休暇の話を持ちかけたという訳だ」
「相変わらず悪党ですね。レインさんへの見返りはなんです?」
「悪党言うな、賢いと言え、賢いと。レインには温泉旅行と現場に同行させるという条件で手を打った。いつも子供に鞭打って働かせてるんだ、たまには大人 連中にも働いて貰わんとなぁ」
 充分悪党だ、三村の目がそう物語っている。石月は景色に目をやり、三村の視線を黙殺した。
 
 東の空が赤く染まり、朝焼けが雪原にまで広がっている。
 外気の寒さと湯の温かさのギャップが、何とも言えぬ心地よさをその身に与えていた。
 
「うん、この時間でなければ、見ることが出来ん光景だな」
「はい、女将さんから教えてもらいました」
「……なるほど……このマダムキラーめ」
 石月はこっそりと呟いた。
「……隊長は子供と年寄りキラーですよね」
「うわぁ、聞こえてたんか……ていうか、子供キラーは止めれ、洒落にならん」
 その言葉に、三村は石月の前まで移動してきた。
 そうして、覗き込むように石月の顔を見つめる。

「どした?」
「元気……出たみたいですね」
「そうか?」
「はい、隊長は怒った時やリラックスした時には、方言が出るんです」
 石月は一瞬言葉に詰まった。
 そのまま、凝視するように三村の顔を見つめている。

「なんです、僕の顔に何か付いてますか?」
「……まいった」
「え?」
「降参だよ、三村くん。俺は君には勝てない。きっと夫婦だったら、一生尻に敷かれるんだろうな」
「はい?」
「いや、よく考えるともう敷かれているな。掃除も洗濯も炊事も全部俺がやっているし」
 石月は額に眉を寄せると、思慮深く思考を巡らせる。
「……やれと言うならやりますよ。結果は保障しませんが」
「うむ、それは困る」
 三村を拾ったのは自分だ。
 だから石月は、三村を引き取って一緒に暮らしている。
 最初はストレスが溜まると思っていたのだが、二人で暮らしてみると案外暮らし心地が良かった。それは恐らく、三村の多大な努力によって成り立っているの だろう。
 石月はそれを自覚していた。
 
 少しずつ、三村は育っていく。
 勿論体もそうだが、それ以上に心が、だ。
 彼の成長を見るのはこれ以上無い程の楽しみを石月に与えるが、それと同時に、心の奥の方でチクリと痛みを沸き起こす。
 引き取られた理由を知ったら、彼は一体どう思うだろうか。
 少なくとも、もう二度と笑顔を見せてはくれないだろう。
 そしてそれは、もう間近に迫っている。

「隊長、なにぼーっとしてるんですか?」
「いや……なんでもない」
 願わくば、この幸福な時間が出来るだけ続いて行くように……。
 石月は小さく祈りを捧げた。


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2006年9月8日 掲載